2024年の駐日大使公邸「東鳴斎」の除幕式の時、韓国の新聞記事の報道は次のような内容だった。
 | 「東鳴斎」の前で、筆者(左から2番目) | 外祖父は、1950~60年代に貧しかった韓国の大使館がビルの賃貸料が払えず途方に暮れていたところを祖国のために土地、建物を寄贈した。
外祖父は見返りを求めず、純粋な愛国心を持って祖国の経済発展のために、また在日社会のために支援を惜しまない実業家だった。本国投資の第一号であり、日本国内でも民族学校創立を支援した。
しかし1974年にクミ(韓国東南部都市、慶尚北道亀尾)の工場の大規模な火災に見舞われ、日本の本社の倒産という不運に遭い、捲土重来、巻き返しに奔走する中、突然の病に倒れ志半ばで世を去った。
まだ61歳の若さだった。会社再建の支援を韓国政府に要請したものの当時世界を震撼させていた「オイルショック」を理由に拒まれた、という外祖父の祖国発展に尽力した半生を詳しく紹介した記事だった。
今現在外祖父に関して残されているものは、大使館内の記念室に展示されいているいくつかの勲章や、銅像そして仁川にある在日学徒義勇軍記念碑に寄贈者として刻まれた「徐甲虎」の三文字があるのみだ。
外祖父が苦悩のうちに世を去った時、私はまだ4歳だった。幼かった私の記憶はあまりにも貧しい。その記事を目にしたことで、私の中には誇らしさよりも申し訳なさが生まれてしまった。
外祖父が世を去って約50年。大使館にその名が刻まれ、銅像が設置され、「東鳴 徐甲虎」は記憶されることとなった。記憶は薄れるが、記録は薄れないという言葉がある。
「彼が愛する国のために何をしたのか」
を掘り出し、記録する事。数少ない遺族のひとりとして私には大きな仕事が残された。
 | 徐甲虎(左から1番目)家族と朴正熙大統領夫妻 |
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