駐日韓国大使館の寄贈者:「東鳴」ソ·ガプホ
娘の実祈は小学校1年生、2年生の夏休み、帝塚山の晴明丘南小学校に「体験入学」に通った。小学校の隣にはマンションが建っている。給食が美味しくないと登校に乗り気でない娘に  | 穏やかな外祖父・徐甲虎と外祖母(右から二番目) |
「実祈、あの小学校には家族の秘密があるのよ」
と言って、気持ちを盛り上げた。
娘が夏休みに「体験入学」でお世話になった小学校は母方の祖父、徐甲虎の邸宅だった。外祖父は紡績業で大きな財を成した。末娘の母が生まれた時にはすでに小さな町工場から関西で一番の紡績会社となり、母は大事に育てられた。
外祖父、徐甲虎は私がまだ四歳の時に急逝したので、外祖父との思い出は数えるほどしかない。私の記憶に残る徐甲虎。広い座敷で膝の上に座っている私。帝塚山の家に泊まった翌日の朝、玄関で外祖父が出勤するのをいってらっしゃいと見送る私。
祖父李熙健もそうだったが、外祖父も背筋がしゃんと伸びていて姿勢がよかった。穏やかな人だった。
外祖父は本人所有の東京不動産を駐日韓国大使館の用途で韓国政府に寄贈した。私がその経緯を知ったのは随分経ってからのことだった。大使館が建て替えをし、新庁舎落成式に招待され、娘の実祈を連れて両親とともに参加した。
式典が始まる前に館内にある「東鳴室」、外祖父徐甲虎の雅号を冠した資料室を見学した。外祖父が当時の朴正熙最高会議議長に韓国大使館の寄贈書を渡している写真はその時に見た。その後ろにそっと控える外祖母。
外祖母は奈良の祖母と同様に、料理上手で手先が器用だった。かわいい毛糸のパンツやニットドレスは今も大事に仕舞ってある。両方の祖母が編んでくれたものだ。奈良の祖母が男たちともやり合えるくらい逞しい女性だったのに対し、帝塚山の祖母はおとなしい控えめなイメージだった。
落成式から数年がたち、今度は駐日大使公邸が「東鳴斎」の名を冠することになり、その懸板除幕式に母と妹と一緒に招待された。前回の新庁舎落成式の時には若くして亡くなった二番目の叔母以外は皆健在だったが、東鳴斎の除幕式の際には外祖父の子供で健在なのは母一人だった。
除幕式の後に送られてきた韓国の新聞社の記事を何本か読んだ。行事当日の様子や外祖父のこについて簡単に紹介したものがほとんどであったが、私の心に残る記事が一つあった。 それは···
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