ここに一枚の写真があります。台湾の高砂族の民族衣装を着た女性と李香蘭のツーショットです。「李香蘭」は、戦前の中国を舞台とした映画の大スターです。戦後は「山口淑子」(旧姓)または「大鷹淑子」(結婚後の姓)として参議院議員を務められました。その大鷹淑子(李香蘭)さんが元慰安婦に対する補償問題の解決を目的として設立された「アジア女性基金」(1995年7月設立)の理事になったことで、私は話をする機会がありました。李香蘭さんは戦前、映画『支那の夜』などに出演したことで上海の軍事裁判で漢奸(祖国反逆者)の罪で銃殺刑に処されるところ、北京の実家から戸籍謄本が届けられ、日本人であることが証明され、九死に一生を得た話で有名です。この『支那の夜』は、北朝鮮の金日成も自民党の訪問団(75年7月27日)の本人に映画を観たことを告げ、本人の歌う『蘇州夜曲』に大変感激したエピソードがあります。
また李香蘭さんは台湾でも有名でした。その頃、私たちは上述したアジア女性基金が韓国では挺隊協、台湾では「婦女救援基金会」が強く反対をしていたので、その説得に苦心していました。私は台湾にも「戦後補償国際フォーラム」以後、多くの知り合いがいましたので、ある時、李香蘭さんに「一緒に台湾へ行きませんか」と誘ったのです。
李香蘭さんは戦前、台湾を舞台とした映画『サヨンの鐘』(山地の巡査を慕う娘が出征兵士になった巡査を大雨の中、荷物を持って見送りに出たが丸木橋で滑って急流にのまれて死ぬという実話を基にした話)で台湾の高山族(高砂族)の娘の役を演じたことがあり、台湾へ行くことを望んでいたのです。台湾の人々に李香蘭訪台の話をすると、みんな大喜びでした。実現すれば、アジア女性基金反対運動の流れも大きく変わるはずでした。しかし、私が何度誘っても結局動いてくれませんでした。上海での国民党による軍事裁判の記憶があるようでした。それでも、97年9月私たちの働きかけで台湾の戦争被害者100人程がまとまって訪日することになり、私はその歓迎会に李香蘭さんと一緒に参加しました。大騒ぎになったことは予想通りでした(写真はその際のものです)。その李香蘭さんも2014年9月7日に94歳で亡くなりました。
このように台湾の人々、特に戦争を知る世代は日本時代を懐かしむ人が多いのです。私が呼ばれて台北市で開かれた集会に参加すると元日本兵の服を着て、みんなで当時の軍歌を次々と歌うのです。それが歓迎する方法だと思っているようでした。私は、「今回の訪問は日本軍の過ちによって、生じた被害の補償問題を解決するために来たので、軍歌は聞きたくない」と話してやめてもらったのも彼らには意外だったようでした。年配の台湾人は、戦後の蒋介石時代の38年間もの戒厳令時代と比べて日本時代のほうが良かったと思う人が多いのもうなずけます。台湾の原住民(現在高山族)が福建省からの移民に海沿いから山奥へ追いやられたのは17世紀後半の鄭成功の時代以降で、清国からも「化外の地」といわれる程、歴史の浅い地域であることも韓国との差が生じる所以なのです。
いずれにせよ、日本を恨まず、懐かしみさえ感じ、厳しい戦時においてさえ、日本兵を支えたという台湾人に対して日本国籍がないとして、軍人恩給や支援をせずとも平気でいる我が民族は誇れるものを持っているといえるのだろうかと、つくづく思うのです。 |