倭国は沸流百済の属国だった
安閑朝が存在しなかった可能性が高いことを明らかにした。それは、継体25年条に「百済本記」を引くという形で、「日本の大王及び太子・王子が同時に死去した」という”辛亥の変”を伝えているからだ。
正史である『日本書紀』は、安閑・宣化朝の存在を記すのだが、即位が極めて高齢で、平均寿命が50歳に満たないであろう古代にあって、70歳前後という超高齢の即位は極めて不自然と考えざるを得ない。
『上宮聖徳法王帝説』などは、継体没年にすぐ欽明が即位していることを記しているし、安閑・宣化朝と欽明朝との両朝の対立併存があったという説もある。正史である『日本書紀』が、歴史を正確に記録していないと広く指摘されており、2朝対立論もそのような視点から出て来たものと思われる。
新羅系山陰王朝が日本列島の歴史の始原であることを随所に述べているが、西暦400年前後に、高句麗広開土王に撃破された沸流百済が大和に侵寇して百済系大和王朝を樹立した。その百済系大和王朝は、悠久の昔から存在していたかのごとく偽装し、それ以前に存在していた新羅系王朝を簒奪し改竄して”幻の大和朝廷”を創出した。
初期の大和王朝を創建したのは、丹波道主王の一族と見られる。そこへ、アマノヒボコ一族なども合体し、次第に和珥氏族が実権を持つようになったと考えられる。それが新羅系山陰王朝であったのだが、百済系大和王朝に簒奪されるということになった。その簒奪は、沸流百済と和珥氏との両面王朝の形で始まった。
雄略朝に渡来した昆支王と継体が同一人物であるということも推測したが、倭が沸流百済であることも明らかにした。はっきりいって、百済の属国であったということだ。
日本史学界は、その史実を逆転させて、倭が任那などを支配したとみなす史観を流布した。その支配したという地は、沸流百済がかつて支配していた地であって、その沸流百済が日本列島に渡来し、倭に成り代わってしまったから、倭が韓地のかつての沸流百済の支配した地を、倭が支配していたと主張しても間違いではなかった。それは暗黙の了解ごとであったと思われる。
そのような史観が定立したのは平安時代の「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習以後だと考えられる。その行事では、倭=沸流百済の韓地での支配が自慢げに講義されたであろうし、国家威信の高揚からも、そのような偽史が講義されたと思われる。
その沸流百済が、韓地の温祚百済に呑み込まれたのは、まさに安閑・宣化朝の時だと考えられる。それは蘇我氏の台頭と時を同じくしている。 |