〔武烈紀〕
倭地は百済王子が成長していく場だった
雄略5年に百済から昆支王が渡来しているが、その昆支王が雄略ではなかったかという思いをさせるのが、昆支王の子である末多王に、雄略が我が子のようにあれこれ指示して百済の大王に就かせたというエピソードだ。
隣国百済の大王に、倭国の大王があれこれ指示して大王に就かせる権限はどこにもないはずだが、そうであるのに倭地で育った王子を百済の大王に就かせたのは、倭国が百済、つまり沸流百済であったことを暗喩するものだ。
その時の隣国の百済は、弟格の温祚百済であったのだが、その温祚百済も高句麗に敗北し、475年に熊津に遷都している。熊津は沸流百済の都城であったところで、沸流百済が故地を温祚百済に下賜した際、大王は沸流百済の王族が就くことを暗黙の了解にしていたのかもしれない。
昆支王の子とされる末多王が百済の東城王となり、島王も武寧王となった。島郎(仁賢)=島王(武寧王)は三島大明神とも称されていたようで、大山祇の人(神)格と同等に扱われ、崇敬されたようだ。当時の倭地は、本国の騒乱を避け、百済王子が成長していく場であったようだし、それは倭と百済が一心同体であったことを暗喩するものだ。
清寧・顕宗・仁賢・武烈の4代史は『三国史記〈百済本紀〉』を下敷きにし、顕宗・仁賢・武烈は同一人物とされているのだが、そうした史観は、『日本書紀』が史書ではなく、フィクション、すなわち小説であることを示唆しているともいえる。
韓語系ヤマト古語が転訛して日本語に
昆支王のことだが、昆支の表記は、昆岐、混支、それに山ヘンに昆という字も使われている。そうした表記の違いや、昆支王の後裔とされる飛鳥戸造が近つ飛鳥に土着し、飛鳥戸神社の祭神として昆支王を奉斎していることなど、今なお多くの謎を残していると指摘されているが、それは”韓隠し”の結果というものだろう。
そうした”韓隠し”によって、日本の古代史は魑魅魍魎の世界となっている。日本列島の歴史は、韓地からの渡来人によって形成されたにもかかわらず、つまり弥生人と称される韓地からの渡来人が、現在の日本人の先祖であるにもかかわらず、日本人の始原を縄文時代に置く日本列島自生論を展開しているのだ。
とんでもない前提の錯誤を犯しているというものだが、それでは真実の歴史が浮かび上がってくるはずがない。 |