韓国は軽装甲車開発経験に基づいて、後にK200装甲車を開発する。
1970年代の後半、北韓がソ連製の新型戦車T62を導入するとの情報が伝わるや、朴大統領は国防部に戦車開発を指示(75年7月)した。国防部は米国にM60パットン戦車の免許生産を要請したが、米国は北側の脅威が現実的に高くないと断った。国防部はやむを得ずドイツとレオパルド戦車を技術協力で生産することにした。だが、契約を締結しようとしたとき、米国が責任を持って韓国型新型戦車開発を積極支援すると態度を変えた。
米国側はM60パットン戦車の代わりに最新のM1エイブラムス戦車をモデルにしてクライスラー・ディフェンス社を協力社に選定した。韓・米政府は78年5月、韓国型戦車開発の了解覚書を締結した。いずれにせよ、戦車のような高級武器の開発・導入の過程で経験が浅かった韓国は、高い授業料を支払うのを避け難かった。韓国は核心技術の確保がどれほど重要かを学んだ。
朴正煕大統領は自主防衛のため自分の政治的・医学的寿命を縮めていた。朴大統領が進める自主国防は、大韓民国の経済構造を、国民のDNAを改造してこそ可能な課題だった。輸出立国の突破口は重化学工業化しかないと宣言、経済開発5カ年計画の戦略と方向はこれに合わせた。
精密加工士や機能工などを短期間に大規模で養成・確保するのは、国民を戦争に総動員するのと同じ覚悟と努力が必要だった。志願すれば誰でも機能工になれた。繰り返し言うが、彼らこそ20世紀の奇跡と言われる、大韓民国を世界5大工業国にした産業戦士たちだ。彼らの献身、犠牲がなかったら韓国の「圧縮成長」は不可能だった。
ところで、良いものを作ったからと言って売れるわけではない。世界貿易の秩序を掌握した先進諸国や競争国と競争して輸出市場を開拓することも戦争だった。さらに東西冷戦の中、反共国家の韓国に素直に市場を許す国などなかった。米国を盟主とする西側の忠実な一員である韓国は、巨大なイデオロギーの障壁を越えねばならなかった。米国を警戒する国家にとって、韓国は当然、警戒対象だ。
韓国の貿易の戦士たちはあらゆる悪条件を乗り越え、輸出市場の開拓に邁進した。非友好的な第三世界、孤立した国家や地域を訪れた。イスラエルとその周辺国との中東戦争を契機に、韓国はイスラエル一辺倒の外交を脱皮した。韓国の商事や貿易戦士たちは、韓米同盟に拘束される政府の限界を超え、アフリカ、中南米など第3世界の扉をノックした。
米国は、韓国が米国との関係が悪い国々との関係発展を監視、牽制した。従来の基本兵器を開発、生産し始めた韓国が、防産製品の輸出に努力するや敏感に対処した。米国は韓国に対する経済協力中断などで脅し圧迫した。
「重化学工業化」が防衛産業建設であることを警戒する米国は、米国の支援で生産された砲弾を韓国の商事がイランに輸出した事件が発覚するや、韓国に防衛産業の廃棄を要求した。韓国産業開発研究院の白永勳博士は、米側の関係者に、韓国が従来の武器生産能力を備えることが米国にも戦略的に役立つことを指摘、説得した。
白永勳博士の説明に納得した米国側関係者たちの斡旋で、白博士はワシントンに行って核心人士約200人に、韓国が在来の武器生産能力を備えることがどうして米国にも有利なのかを説明した。米国は、韓国に対する圧迫を止め、韓・米両国の防衛産業企業同士が防衛産業協議会を定例的に開催することに合意した。
(つづく) |