78番歌には、先に持統天皇が飛鳥精魚園宮を捨て、藤原京に遷都しながら取った措置が触れられている。
驚くべきことに、持統天皇が淨御原宮を罰して廃棄したと言っている。罰を下した事由は、一人息子の草壁皇子を早死にさせたことに対する問責だったのだろう。おそらく焼き払われたはずだ。
元明天皇が藤原京を捨てて平城京へ遷都した理由も、息子の文武天皇を亡くした母の決断だった。藤原京に責任を問うたのだ。だが、元明天皇は持統天皇とは違って、藤原京を離れるものの焼き払いまではしなかった。
藤原京の管理責任者として左大臣を任命した。左大臣は臣下としては最高位だから、藤原京の管理に最善の措置を取ったと見るべきだ。
ところが、藤原京は元明天皇のこのような保護にもかかわらず、遷都の翌年に火災に見舞われてしまった。『扶桑略記』にそう記録されている。
藤原宮の遺址を発掘する過程で焼けた跡は発見できなかったという。扶桑略記の内容と発掘結果が異なる。一体どういうことだろうか。
78番歌を解読してみよう。誰も知らなかった歴史が現れる。
「飛んでいく鳥たちや明日香と、相俟って過ごしたはず。持統天皇が廃された。持統天皇が、飛鳥淨御原宮を罰して目に付かないようにと仰った。大臣たちが、藤原宮は何事もなく平安に保つように措置したと私に報告した」
元明天皇は藤原京を去りながら細心の配慮をした。廃されなかった。新しい都である平城京と繋げて人里離れたところにならないようにした。
藤原京を捨てたことに対して持統天皇が怒るのではないかと恐れたためだろう。万代にわたり自分の血統をもって皇統を継がせようとした持統天皇の遺志を仰ぐためだっただろう。
藤原京と平城京は近かった。その間に家々を建てて藤原京と平城京が繋がるようにした。
さらに、二人に任務を与え、藤原京と平城京の間を絶えず往来するようにした。一人は男(将)で、一人は女(母)だった。
平城京には赤い旗を吊るすようにした。赤い茜色は天武天皇を象徴する色だった。
平城京は藤原京を継いでいるという象徴だった。
夢の歌飛鳥川は流れる(万葉集第78、79、80番歌) <続く> |