在位2年で用明が死去したと記録されたと思われるが、実際には周防国で立派に生きていたという。用明朝には生野長者と称される百済王族がいたという伝承があり、豊後国(大分県)にも満野長者の伝承がある。いずれも聖徳太子がからんでいる。その伝承の場合は、聖徳太子を琳聖太子に置き換えてもいいと思われる。
用明の病気平癒のため、蘇我馬子は穴穂部王子を篭絡して、豊国法師を内裏に参内させたと見られるのだが、その豊国法師は韓国(からくに)法師のことであり、江戸時代の古書に百済人だと記されているそうだ。つまり、豊国は韓国(からくに)のことを意味しているということになる。
蘇我馬子との戦いで敗死したはずの物部守屋が、近江あるいは信濃、あるいは東北に逃れ生き延びたという伝承もある。そのことは、『日本書紀』が記すところの史実は全くのフェイクニュースであることを意味する。日本に限らず、各国の歴史でも死去したはずの人物が他所で生き延びたという伝承は多々ある。
蘇我氏=温祚百済は仏教を通じて倭=沸流百済を飲み込む工作を多々実践したと考えられ、蘇我馬子は新羅系山陰王朝のアマノヒボコ後裔氏族の息長氏を懐柔したことも、勝利の一因と考えられる。それが成功して倭国の実権を掌握したと思われる。それは、蕃神(仏教)が神道(儒教)に勝利し、倭国が神道(儒教)国から仏教国へ転換したことを意味する。それは、物部氏の祖神とされるニギハヤヒ(饒速日)伝承の風化をもたらしたことになる。
蘇我氏は倭=沸流百済を飲み込むために派遣された
敏達は仏法を信じず、文章や史学を好んだとあるように、仏教を敬遠していて崇仏派の蘇我氏とは対立した関係にあったことを明らかにした。敏達はまた、任那復興のために百済から日羅を召還したということだが、日羅は仏教的聖人であったことを明らかにし、任那復興という政治目的ではなく、仏教流布という目的、換言すれば、倭=沸流百済を飲み込むために派遣されたであろうことを明らかにした。それは、実際の召喚者は蘇我氏であったことを示唆するものだ。
敏達と対立していた蘇我馬子は、自分の娘である堅塩姫と小姉君から生まれた王子を大王にするため、いろいろと画策したと思われる。それは、個人的な欲望というよりは、倭=沸流百済を飲み込もうとする韓地の温祚百済の意を体得した政治目的によるものだと考えられる。
聖徳太子の母とされる穴穂部間人姫だが、京都は丹後半島の突端、間人の地で生まれたという伝承がある。