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大学ではアメリカンフットボール部に |
父:李勝載(イ·スンジェ、1947-2020)
小学校、中学校、高校を通じて生徒会長を務め、大学は東大へ。
高校ではバスケットボール、所属。絵に描いたような優等生だった。周囲の期待に応えようと、いや、その期待以上のことを成し遂げようと懸命だった父。
在日社会を牽引する立場になってからも同じで、40代に入って歯がボロボロになり、入れ歯を入れていた。ちなみに祖父は94で亡くなるまで歯が欠けることはなく、全て自分の歯だった。
小学一年生だった冬の日の放課後。担任の先生が私の両肩に手を置き、真剣な眼差しで、
「苗字が変わることは大変なことじゃないのよ。気にしないでいいのよ」
と言った。私の苗字が「五影」から通名の「平田」に変わったことを翌日の朝会でみんなに告げた。当然不思議がったクラスメイトたちは
「なんで、なんで」
と訊いてきた。私は自信満々に
「占い師の先生が苗字を変えたほうがいいって言ったからよ」
と答えた。まだ小学一年生の単純な子供たちは私の言葉を
「へえー」
と信じた。私の「五影」歴は七年だった。
父は約30年間「五影勝則」だった。父の高校までの卒業アルバムには「五影勝則」とある。父は幼い頃から「神童」の誉高く、小中高、全て生徒会長を歴任。バスケにバンドと、万能の人だった。学校のアルバムの父の写真は、どれも自信に満ちていてモノクロの写真なのにリーダーオーラが眩しい。
父は周囲の期待に大いに応え、東京大学に入学した。当時は学生運動が激しかったが、父は勉学にアメリカンフットボールにと、快活で誠実な学生生活を送っていた。「五影勝則」として。
「僕の大学の同期の半分くらいは官庁に入ったね。東大は官僚を作る大学だから」
「五影」のままなら皆が羨むエリート街道まっしぐらのレッドカーペットが父の前に広げられていたかもしれない。しかし父は数年の大和銀行勤務の後「五影」の衣を脱ぎ、「李」つまり「平田」の鎧をつけることを選択した。