新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第89回 伴野麓

日付: 2025年07月23日 12時02分


〔宣化紀〕

宣化が都した檜隈は東漢氏の拠点地域

70歳というあまりにも高齢の即位を参酌すれば、宣化朝は存在しなかった可能性が高いと思われる。つまり、「辛亥年に日本の大王及び太子・王子が同時に死去した」という”辛亥の変”により、宣化も殺されたと考えられるからだ。
宣化が都した檜隈廬入野(いおりの)は、大和国高市郡明日香村檜前の地で、檜前=檜隈という地は、応神朝に渡来した阿知使主を始祖とする東漢氏の領域であった。つまり、沸流百済王族の有力氏族であった。
高市郡の総人口の8、9割までが、檜前忌寸であった東漢氏とその一族で占められていたという。その地に鎮座する於美阿志(おみあし)神社の境内に「宣化天皇檜隈廬入野宮趾碑」が建っている。であれば、宣化は、沸流百済の大族である東漢氏族と深い関係にあった可能性がある。
その地を蘇我氏の領域と見る説もあるのだが、蘇我氏は温祚百済を体した氏族と見られるから、宣化らを抹殺したクーデター後に、蘇我氏が沸流百済系の王族の領地を奪い取った地だと思われる。蘇我氏の台頭とともに、大伴氏らが凋落していった。つまり、両面王朝の和珥氏側の勢力はもちろん、沸流百済王朝を支えた氏族らも衰退していったと思われるのだ。
宣化の後裔は、猪那君や多治比君で、阿知使主を始祖とする東漢氏の一族である呉織や穴織の一族とその領域が重複する。また、屯倉の整備にかかわり、宣化が派遣したという阿蘇君は、始祖が隼人の祖のホスソリ(火闌降)と考えられている。ホスソリはホアカリ(火明)と兄弟で、山幸彦(ホスセチ)と海幸彦(ホアカリ)の故事で知られている。
屯倉は三宅とも書かれ、三宅氏はアマノヒボコの子孫とされている。つまり、屯倉も三宅も王領であったということだが、アマノヒボコ王朝の三宅(王領)を簒奪して、屯倉と書き改めたとも考えられるのだ。

百済の聖明王が宣化朝に仏像や仏典を伝えた

天照御魂と書くと、一般には天照大神を想起するはずだが、天照御魂はもともと男神のニギハヤヒ(饒速日)のことであった。それが、藤原不比等らによって女神にすり替えられ、女神の天照大神に変わった。それは、新羅系山陰王朝の人(神)格が、沸流百済の人(神)格に変えられたことを意味するものだ。
百済26代聖王(聖明王)は、宣化3年(538)に日本に仏像や仏典を伝えたとしているのだが、日本に渡来したという古記録もあるそうだ。それゆえ、聖明王が欽明という説もある。


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