李薫の「家族の肖像」 第7回

二〇一一年三月二十一日、掠れた声で「頼むわ」
日付: 2025年07月16日 02時01分

ソウルの明洞聖堂を訪れた時のことだった。大阪から晋玉童SBJ銀行大阪支店長(現新韓金融グループ会長)から電話が入った。

「薫さん、今日大阪に戻れますか」

突然のことで返答に戸惑い、

「明日ではダメですか」

と言うと、晋支店長は強く

「明日では間に合うかどうかわかりません。飛行機のチケットを手配しますから」と。

ーーー間に合うかどうかわからないーーー。

 祖父とのお別れの時が、とうとう近づいてきた。

 私にとって祖父は不死身のヒーローだった。ずっと元気で、豪快に笑っているのが当たり前だった。その当たり前にピリオドが打たれる瞬間が迫っていた。

 2歳半になる娘、実祈を連れて、飛行機に乗り大阪へ。病室に入ると、祖父は規則的に呼吸をし、穏やかな様子だったが目は閉じたままだった。

 その前に娘とお見舞いに訪れた時のこと。

「おじいちゃん、実祈と来ましたよ」

祖父の10周忌追悼式(2021年3月21日、新韓銀行研修院)

 いびきとも取れる寝息を立てていた祖父がゆっくりと目を開け、にんまり笑って、スッと手を伸ばし、娘の頬を優しく撫でてくれた。そして私に目を向け、掠れた声で

「頼むわ」

と。それが祖父の最期の言葉だった。娘の頬を撫でていた祖父の指は相変わらず長くてきれいだった。

 三月二十一日。祖父は家族に見守られ、安らかに天国へと旅立った。確か隆則(隆載)おじさんだったと記憶している。「三、二、一であの世に旅立つなんて、親父らしいな」と。

 安らかに「三、二、一」と旅立った祖父の、〈大いなる最後〉の始まりはここからだった。亡くなった翌々日に開かれた新韓金融持株会社の株主総会で、祖父の死が公表された。祖父は在日の株主たちに新韓銀行の未来を託して旅立った。

 会場に祖父の意識がしっかりしていた時に録音された在日の株主の方々へのメッセージ、「親愛なる皆さん」で始まる(遺言)が流れた。

「新韓銀行は私一人で作ったものではありません。皆さん、一人一人が創立者であります。どうか創立者として新韓銀行を守って下さい」


閉じる