幻の大和朝廷第87回

新解釈日本書紀(続)応神
日付: 2025年07月08日 11時31分


新羅系王朝を簒奪し改竄して”幻の大和朝廷”を創出

応神朝は、和珥氏と沸流百済の両面王朝であったことを、すでに明らかにした。両面王朝の応神朝の樹立に際して、大王は沸流百済から、后妃は和珥氏から出すということで合意したのではないかと推測される。
新羅系山陰王朝の構成員である丹波道主王の一族は、早くに大和に進出し、初期の大和王朝を創建したと見られている。その大和王朝は、次第に和珥氏族が実権を持つようになり、そこへ高句麗広開土王に撃破された沸流百済が大和に侵寇して百済系大和王朝を樹立した。その百済系大和王朝は、悠久の昔から存在していたかのごとく偽装し、新羅系王朝を簒奪し改竄して”幻の大和朝廷”を創出した。
継体没年が辛亥歳(531年)で、安閑即位年が甲寅歳(534年)であり、『上宮聖徳法王帝説』などは、継体没年に欽明が即位していると記していることから、安閑朝と欽明朝の両朝が対立併存していたという説がある。
あるいは、継体25年条に「百済本記」を引くという形で、辛亥年に日本の大王及び太子・王子が同時に死去したという記事があり、大王と王子たちが同時に殺されたと記していることから、安閑は即位する前に殺されていたという説もある。
注視されるのは、昆支王と継体が同一人物であるという説で、継体、安閑らが全て殺されたという。殺したのは欽明で、主導したのが蘇我氏だという。そうであれば、韓半島の温祚百済が、日本列島の沸流百済=倭の王族を暗殺した可能性が高くなる。
そうした両朝対立やクーデターを隠蔽したのが仏教公伝の故事で、『日本書紀』は欽明13年の壬申歳(552年)に百済聖王(聖明王)が使者を使わし、仏像や経典を伝えたとするのだが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などは、戊午歳(538年=宣化3年)としている。それは、安閑・宣化朝が存在していなかったことの証左だという。
余談ながら、竹生の土地を献上した三島県主飯粒(いひほ)が、三島溝杙耳と深い関係にあるとされるのだが、三島溝杙耳は、大山祇、鴨建角身、大陶祇と同一人(神)格で、鴨建角身は味耜高彦根、八咫烏とも称されるから、難解な〈神代紀〉の神々の実体が、一つの人(神)格に収斂されていくことを明らかにした。それは、一人の人物が、多重人格にされて記述されているという証左になる。


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