私が出会った在日1世~三千里の人々④ 安部柱司

民俗学における五島列島と済州島
日付: 2025年07月08日 10時20分

 済肥後猛婦とは、大宅壮一の造語だと伝えられている。熊本の女性は芯が強く、自立心旺盛なことを表している。熊本の女性のあり方から、母系社会を論じた女性史研究者に高群逸枝がいる。熊本県下の天草から長崎県下の五島列島にかけて隠れキリシタンの存在する地域である。それはマリア信仰によって支えられていた。マリア信仰は母系社会に合う。
今日の民俗学は五島列島と済州島が母系社会であることを教えてくれる。有明海に明治になると済州島漁民が進出してくる。日本は江戸時代から海面の漁業権が確立されていたが、海底まで及ばない。有明海の海底のタイラギ漁に進出してくる。有明海の漁師はあんこう網を持って済州島近海のグチ漁へ出かけていく。グチ漁は暖流と共に朝鮮半島西海岸を北上する。済州島の漁民はグチを追ってマリア信仰を朝鮮半島北部へ運ぶ。タイラギ漁とグチ漁が済州島を舞台に、日本と韓国を結び付けた歴史を『くじゃく亭通信』誌で展開する、と言う約束であった。
「NHKに朝鮮語講座を要望する会」の発足は、1975年11月発行の『季刊三千里』誌での久野収と金達寿の対談「相互理解のための提案」を契機とする。それ以前、74年に高淳日は『朝日新聞』紙にNHKに朝鮮語講座の開設を要望する投書を行っていた。
金達寿から、「NHKに朝鮮語講座を要望する会」の事務局を手伝うように要請され、矢作勝美事務局長を補佐する立場に置かれた私は、高淳日と連絡を密にする。そこから『くじゃく亭通信』は生まれる。その時、私の手には『有明海の漁撈習俗』があった。
日本近代史における済州島と九州西海岸の繋がりを調べることに熱を上げていた私へ、佐藤勝巳が近づく。そして耳打ちして来た。当時の佐藤勝巳は『日本朝鮮研究』誌の編集に携わっていて、私も寄稿していた。佐藤勝巳と親しくなった切っ掛けは、金嬉老事件を通してで、60年代からの付き合いである。
佐藤勝巳は顔の三分の一は占めている大きな口を開いて、「高淳日は対日工作員だと知って、手を組んでいるのか」と、問いかけてきた。私の背筋は、ゾクッと反応した。それは高淳日のNHKに朝鮮語講座開設を訴える「朝鮮語」が「平壌文化語」であることに気付いたからである。
そういえば、『季刊三千里』誌の李進熙編集長が、高淳日に向かって「あなたの話す言葉が分からない」と、上から目線で語っていたことを想い出したからでもある。その時の高淳日の反応は、顔を真っ赤にし、今にも喧嘩になりそうな雰囲気を醸成した。だが、側に私がいることで喧嘩に発展しなかった。鈍感な私は、慶尚道出身の李進熙が、済州島の高淳日とは使う朝鮮語が違う、と述べたのは差別的感情の籠もった言葉だと受け止めた。その頃、私は在日社会での済州島差別を感じていたからだ。
その受け止め方が全くの見当外れだと、佐藤勝巳の「高淳日は北朝鮮の対日工作員だと知っているのか」と、警告された言葉で、自身の厳しい立場を自覚させられた。すぐに『くじゃく亭通信』誌の発行への関与を取り下げた。初台から坂を下って「画廊喫茶・ピーコック」に行き、コーヒーを飲むことも辞める。
2011年、片岡千賀之『長崎県漁業の近現代史』が刊行される。私の心は大きく揺らいだ。30年の時間が経過していたが、高淳日に連絡を取った。私は偏狭な心を詫びた。当時は金達寿と韓徳銖に金炳植の争闘に巻き込まれていたことを述べた。高淳日は私の偏狭さを許してくれ、三一書房から『くじゃく亭通信』誌を復刻することに同意を求めてきた。


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