さまざまな説を取捨選択してみると、崇神の実体が薄くなっていくような気もする。どうしてかと、思案六法に暮れながらいると、ある日、崇神も創作された大王(天皇)ではないかという結論に達した。
崇神は、御肇国天皇と称される実在の大王として認識されているようだが、それは崇神という名前だけが実在しているものであって、その実態は、百済系に色付けされた傀儡王朝だということだ。その当時の実権王朝と思われるアマノヒボコ王朝を、百済系の装いを施して記述したものだという結論になる。
戦いに敗れた伽耶人将兵らが新天地の倭地に逃避
大和朝廷の起源は多くの謎におおわれていて、その成立についても統一的見解は提示されていない。特に崇神王朝が成立したとされる4世紀は、多くの人々によって謎の世紀とよばれている。崇神王朝の実態は、まだ十分に解明されていないということだ。
日本国の原点であるはずの古代がこのような、今なお魑魅魍魎であってはなるまいと思う人も多いはずだ。換言すれば”幻の大和朝廷”に眩惑されて、あれこれ空理空論を展開しているという現状に、多くの人が戸惑っているということだ。
『古事記』や『日本書紀』に御肇国天皇として描かれている崇神に始まる王朝とは、どのようなものであったのか。崇神朝の謎を解き明かそうとして戦後いち早く騎馬民族征服王朝説が提起されたが、はたしてその立論によって真相をつきとめ得たかどうか。前方後円墳の出現に象徴される古墳文化の歩みと王権の構造とは、どのようなつながりをもつのか、などの課題が提起されている。
「崇神はなぜ日本列島に渡来したのか」という疑問が提起されているのだが、それは「なぜ山に登るのか」という疑問と同類のものだ。そこに島が見えたから、日本に渡来したという単純な回答しか見いだせないだろうと思われる。対馬は、釜山から見えるが福岡からは見えないということだ。つまり釜山からのほうが近く、島が見えればそこへ行ってみたいというのが、人間の冒険心だろうと思う。まして、戦いに敗れた将兵らであれば何が何でも逃げる算段を講じ、そこに島が見えれば、その島を目指したはずだ。そのようにして、韓地から倭地に渡来した人も多くいただろう。
ところが、倭地に強大な国家が存在していたなら、そうした韓地からの渡来が阻まれ、逃げ道が遮断されたと思われる。裏を返せば、倭地は未開の荒地であったから、各地に逃げた渡来人の集落ができていったと考えられるのだ。
初期の渡来人はそのような韓人であり、戦いに敗れた人たちが大半のはずで、それは弱小国家の伽耶人であったろうと思われる。その伽耶人らは、後に韓半島を統一した新羅によって、すべからく新羅人にされてしまった。スサノオしかり、アマノヒボコしかりだ。崇神にしても伽耶諸国同士の戦いに敗れ、新天地を求めて倭地に渡来した王族であったと考えても無理はない。倭地は、当時の韓地からの敗残将兵らの逃げ場であったはずだからだ。